2013年1月7日星期一

【紅と白 高杉晋作伝】関厚夫(86)狂生篇 嵐の予感(一)

【紅と白 高杉晋作伝】関厚夫(86)狂生篇 嵐の予感(一)
晋作は渡海する。が、曲折があった。 当初、藩政府(というよりも晋作が小姓(こしょう)としてつかえる世子・毛利定広)は、幕府が文久元(1861)年に欧州に派遣する使節団に晋作を随行させようとし、晋作もそれを熱望したが、「すでに定員」ということで、実現しなかった。  この「文久遣欧使節」の正使は、勘定奉行兼外国奉行の旗本、竹内保徳(やすのり)。目的は欧州各国を歴訪し、「両都両港開市開港延期交渉」と「日露国境画定交渉」をおこなうことだった。 幕府は安政5(1858)年、米英仏蘭露と「安政五か国条約」をむすんだ。この条約によって翌年、箱館(函館)・神奈川(横浜に変更)・長崎の3港が開港。これにつづいて江戸・大坂・新潟・兵庫(神戸)を順次、開港・開市してゆく予定だった。だが、日本国内における尊王攘夷熱の高まりと、かつて横井小楠(しょうなん)が晋作に説いた、開国(3港の先行開港)による物価高騰の混乱を受け、幕府は2市2港の開港の延期を各国に申し出ざるをえなくなったことが、両都両港開市開港延期交渉の背景にある。また、日露国境画定交渉の対象は樺太(からふと)だった。 後世からみれば、正使以下の面々は豪華絢爛(ごうかけんらん)の観がある。まず翻訳方として福沢諭吉がいた。さらにはのちの日本外交の重鎮で伯爵、元老院議長も務めることになる寺島宗則、通弁(通訳)方には明治ジャーナリズムの祖、福地桜痴(おうち)がいた。また、長州藩からは藩主・毛利慶親(よしちか)の小姓で、のちに宮中の要職を歴任することになる子爵、杉孫七郎が使節会計方の「使用人・新助」という名目で随行していた。 使節の旅程はまる1年間におよんだ。そして帰国した一行を待っていたのは、《我国の形勢は全く一変したり、幕府の政略は実に一転したるなり》(福地桜痴『懐往事談』)という時勢の激変だった。もし晋作が当初の希望通り「文久遣欧使節」に随行していたならば、晋作の運命とともに、その後の長州藩、ひいては幕末維新史は、かわっていたかもしれない。               「文久遣欧使節」が出航した翌日にあたる、同じ年の12月23日、晋作に「世子小姓役を一時免じ、航海術修業のため他国に出国するよう」、そして「公儀(幕府)が支那国(中国・清)に派遣する使節に随行するように」という命がもたらされた。一行のむかう先は上海。出発は翌年4月下旬だが、晋作は年明け早々にも出航の港・長崎へと旅立つことになった。
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